期待しない、ということ

5月30日。晴れ。

 

初夏といえども夏はまだまだ未熟で、夜になると、ひんやりとした心地よいいくつもの風がビルの間をするすると流れる。

 

走る私は、その風の1つを場違いに汗ばんだ肌で感じる。


飯倉片町交差点から新一の橋交差点へ、そして赤い靴はいた女の子の像をかすめて大黒坂を駆け上がる。坂を上がりきったら誰もいなくて、息を整えるために少し歩く。

 

履き慣れたランニングシューズは、入社してすぐに六本木ヒルズのセールで購入した。
合わせて買ったウェアは与沢翼とお揃いで少し恥ずかしかったが、与沢翼はそのウェアをすぐに着なくなったから、いまは堂々と着ている。

 


シューズを買った日のことをよく覚えている。

 

配属部署での慣れない仕事。「体育会出身だから」を言い訳に後輩にきつく当たる先輩。学生時代から付き合ってきたが、職場の同僚と浮気をしているらしい恋人。様々な好ましくない状況。
仕事終わりになんとなく寄ったアディダスで、なんとなくシューズとウェアを買った。


小学校の頃、あれだけかけっこで恥をかいて走ることを憎んでいた私がなぜそんなことをしたのか、今でもよく分からないが、今でも週に2,3回は仕事終わりに近所を走っているのだから、人生とは分からないものである。

 

走ることは心地よい。走っている間は余計なことを考えなくてよいし、走れば走るほど遠くへ早く走れるようになるし、たまに暴飲暴食しても体重を維持できる。


体は嘘をつかない。自らの思考や感覚、体の機能や状況を自らコントロールできている、という実感を強く得ることができる。

 

 

二十数年の短い人生だが、人生は生きれば生きるほど嫌なことが出てくる。


目の前に大きい石があるからひっくり返してみたら、ダンゴムシがうじゃうじゃ出てくる遠足を思い出す。石の数だけ嫌なことが生まれるし、社会や会社や友人は「どんどん石をひっくり返せ」と強要するから、またダンゴムシや変な虫を見て嫌な気持ちになる。人生は楽しくない遠足みたいなものだ。

 

人生で最もタチの悪いのは、それら多くの不幸の大半が、自分ではコントロールできないものあるという点に尽きる。

 

避けようとしても避けられず、解決しようとしても解決できない。


例えば、機嫌の悪い先輩がその機嫌の悪さに任せて怒鳴りつけてくる。恋人が実は職場の同僚と浮気している。無茶な量の雑務を押し付けられて、窓の外を見ていたら雨が降ってくる。池袋で子供が轢かれて、川崎で子供が刺される。日本経済はもうダメだし、年金はきっともらえない。私の人生に、これからいいことなんてない。あったとしても、不幸の数のほうが多いから、死ぬときに決算したら大赤字になってしまう。私ももうダメだ。

 


ある時、ふと気づいて、なんで自分でコントロールできないことで思い悩んでいるんだろうとバカらしくなった。


先輩の機嫌は、明日もあさっても戻らないかもしれないが、別に私が機嫌よく頑張ってもどうしようもない。


恋人は、職場の同僚と明日もあさっても寝るかもしれないが、別に私が素敵な靴を履いたところでどうしようもない。


祈っても雨は止まない。泣いても子供は戻ってこない。雑務をテキパキとこなしても日本はgreat againできないし、老人ホームのお金は自分で貯めるしかない。決算は赤字でも、その責任を取って私は死ぬわけだから誰も非難しないでほしい。

 

毎年、お正月に友人と集まって書き初めをするが、その翌年の書は「期待しない」にした。

 

 

人生は劇的に楽になった。
コントロールできない不幸について思い悩むことをやめて、コントロールできる幸せを愛するようになった。


機嫌の悪い先輩とはなるべく話さないし、怒られても気にしない。恋人とは別れて、深夜に電話がかかってきても無視する。

 

そうなると歯止めが効かなくなってゆく。

 

人間関係のリストラ化が進む。面倒な友達や、一度揉め事が起きた友達と気軽に会わなくなる。大学のゼミやサークルの集まりも、もともと感じてきた居心地の悪さが災いしてすっかり出なくなった。お酒も飲まなくなった。


期待しない、ということは、人との繋がりを拒絶することでもあると今さら気づいた。

 

その代わり、走り、タイムを計り、体重を量る。全ての指標が日々前進する。コントロールできる定量的な好要素を孤独に眺めて、孤独に生きて、孤独に死んでゆく。

 


ほんとうにその覚悟はあるか?と問われたら、いまはそう思う、と答えるしかない。