小倉くんの失われた青春、あるいはハイスペ男子の背負う業について

小倉くんと会うのは2週間ぶりだったが、僕たちとの間には不思議なぎこちなさがあった。

なぜなら、大学の卒業式以降、一切連絡のなかった彼から急な連絡を受けて会ったのがその2週間前の合コンであり、そこにおける2時間強程度の再会の場は、僕たちの空白の4年間を治癒するには十分ではなかったからだ。

 

小倉くんと知り合ったのは、お昼休み前の日吉キャンパスの大教室の、最前列のテーブルだった。季節は初夏で、薄い窓ガラス越しに蝉の声が聞こえた。

大半の慶應生の人生において、最も勉強するのは大学受験の直前期であり、ひとたび入学すれば、サークルやアルバイトに時間を投資し、勉学は自然と疎かになる。その結果、たとえ必修の講義であっても教室には空席が目立ち、特に最前列には1人とか2人しかいないのが自然である。

そんな中、彼と僕は最前列のテーブルに陣取り、『経済学基礎』を受講していた。そこには不思議な連帯感が生まれ、講義後のお昼休みに学食でランチを共にすることになった。

 

小倉くんは東北の寒村出身で、本当は一橋大学で会計を学びたかったのだそうだ。サークルには入らず、その青春の大半を日吉の伊藤塾で過ごし、来る会計士試験に備えていた。

彼にとって会計士試験は、受験に破れた高校生の頃の自分に対する弔い合戦であり、 得られたはずの一橋大学卒業後の幸せな人生を取り戻すための唯一の手段なのだろうと、当時の僕は学食の野菜ラーメン300円を食べながら思った。

 

数年の苦学の末、小倉くんは見事に在学合格を果たした。その後すぐにBIG4への就職も決まった。

小倉くんの合格を、日吉の彼の家で祝った。東急ストアで買った少し高い牛肉を焼きながら、「合コン開いてよ、ずっとやってみたかったんだよね」と彼は言った。

 

慶應生って遊んでるんでしょう、とよく言われるが、誤解である。

慶應生の大半はいわゆる外部生(大学から慶應に入った学生)であるが、そんな彼らの更に大半は幼い頃から勉学に励んできた、選りすぐりの『勉強ができる子』だ。

しかし、好き好んでお勉強好きになったわけではないというのが、私の実体験も踏まえた仮説だ。

外部生の多くは、青春を欠損している。運動会のリレーで脚光と歓声を浴びることはなく、卒業文集巻末のアンケートで『かっこいい人』『おもしろい人』に名前が挙がることはなく、バレンタインデーに手作りのトリュフチョコをもらうこともない。

勉強ができる子の入口は、『勉強ができること』『勉強が好きなこと』ではなく、『勉強以外ができないこと』『勉強以外が好きでないこと』だと思う。

見た目、運動神経、性格。

社会的に広く肯定される『きらめく青春』を得られなかったかわいそうな子たちの行き場がお勉強であり、その遥か先に名門大学がある。

その結果、大半の慶應生は女性経験に乏しく、それどころか対人コミュニケーションに不得手な人が多い。気付けば学校に来なくなる人も少なくない。

合コンなんて行ったこともない、という学生のほうが多いのではないだろうか。

 

小倉くんもその仮説の中にいた。

その日、飲み慣れない赤ワインで大いに酔った彼は、自らの過去と、その舞台となった地元に対する複雑な思いをぶちまけた。いじめられて不登校になりかけたこと。大学に地元出身の友人がいなくて安心していること。未だに女性とのコミュニケーションが苦手で、童貞であること。たまに地元の知人たちのFacebookを覗き、彼らの手にした慎ましい幸せを見てやりきれない気持ちになること。

会計士の資格と大手会計事務所での職が、自分の人生を素晴らしいものに変えてくれると小倉くんは信じていたし、私もそうなるよう祈り、赤ワインをごくごくと飲んで寝た。

 

大学卒業後、小倉くんは業務に忙殺されなかなか会えなくなり、そのうちにお互いに連絡を取り合うことをやめた。彼が望んだ合コンを私が開催することもなかった。

 

ある日、小倉くんから久々に連絡があった。

クライアントが変わって業務量が激減し、平日夜も気軽に飲めるようになったこと。会社の先輩が女の子を紹介してくれて、その子と合コンをするからぜひ来てほしいということ。私は快諾し、ある金曜日の20時、新宿三丁目に向かった。

 

それから2週間後。小倉くんと僕は麻布十番の小綺麗な焼き鳥屋にいた。

1杯目は脊髄反射的に生を頼んだが、2杯目にフランス産のよく冷えた白ワインをボトルで頼んだ。小倉くんはソムリエみたいに瓶を片手持ちして、僕のグラスに注いでくれた。慣れない赤ワインで泥酔していた頃が、遥か遠くのことに思われた。

 

散々な合コンだったね、と小倉くんは言った。僕は曖昧な反応でその言葉を躱し、代わりに白ワインをごくりと飲んだ。

 

確かに散々な会だった。

3対3のオーソドックススタイルだった。男性は小倉くんと僕、それから大学の頃の共通の知人。女性は小倉くんの会社の先輩がコリドーでナンパしてきた一般職の女の子と、その友人たち。美人ではないが、愛嬌がありよくお酒を飲む子たちだった。

合コンが初めて、に加え、女の子のいる飲み会が久しぶりの小倉くんは、緊張のためか終始静かだった。

それなりに盛り上がり、では二次会行きましょうか、となったところで、幹事である彼が解散を発表した。女性陣は驚いたようだが、明るくじゃーねーと言って東口で解散した。後で聞いたところによると、女性たちは飲み足りないというか、なんとやくモヤっとした気持ちになって相席屋に行ったそうだ。その気持ちが、私もなんとなく分かった。

 

小倉くんは、まず女性たちの顔が可愛くなかったと言った。彼は吉岡里帆のようなタヌキ顔が好きだと言っていたから、先方幹事のはるかちゃんなどは目が大きくて愛らしいではなかったか、と聞いてみたが、あれは目が大きいだけだよ、少し太り過ぎているし、と笑って否定された。

次に、話がつまらなかったと言った。経理の真似事みたいな仕事の話、EXILEの人が出ている低俗な映画の話、EXILEの人の音楽の話と、小倉くんの興味を引く話題はなかったそうだ。

 

別に女性たちの肩を持つつもりはないが、僕はなんだか不快な気持ちになっていた。

確かに小倉くんは天下の大手会計士事務所勤務のエリートかもしれないが、見た目が特別優れているわけではなく(というか、少し小太りで顔立ちも少し野暮ったい感じだ)、場を盛り上げる明るやさ面白さがあるわけでもなく、現に合コンでも彼は女性陣からの興味を引くことなく、静かにワインをちびちびと飲んでいただけだ。

 

「そうしたら、天下一のエリートである小倉くんは、一体どんな女の子なら満足できるの?吉岡里帆?」

私は冗談半分(残り半分は苛立ちだったかもしれない)でそう言ってみると、彼は少し黙って、そしてこう言った。

「分からない、うん、分からないんだよね。どうしていいのか。」

 

その日、彼は決して安くないそのお店の白ワインを盛大に飲み続け、あの夜のときと同じようにふらふらになって、タクシーに乗って去っていった。

私はローソンで麦茶を買って、酔いを醒ましながら白金高輪の自宅まで歩いて帰る。

 

小倉くんは、きっとまだ、失われた青春の弔い合戦を続けているのだと思った。

大手会計士事務所に勤め、若くして1,000万近い年収を手にして、仕立てのよいオーダースーツを着ても、彼の苦い過去が治癒されることはなく、現在が輝かしくなればなるほど、彼が手にすべき幸せのハードルは高くなってゆく。ウブロの腕時計で、場末の経理の女の子をぎゅっと抱きしめることなど、もはや彼のプライドが許さなくなってしまったのだ。

 

そしてこれは、『勉強ができる子』みんながその背中に負った業なのだとも思った。

 

それから数年後、小倉くんは結婚する。結婚相談所で紹介された、なんてこともない中小企業の事務員さんが相手だそうだ。僕を含む大学の友人たちは結婚式に呼ばれなかったし、その後連絡があったわけでもないから、あの日のあと、小倉くんにどんな心境の変化があって、今どんな気持ちで日々を過ごしているのか、誰も知らない。